“ みんな、
今年こそ、
幸せに、
なりたいかーーーーーーーーー!! ”
“ おぉーーーーーーーーーーっ!!”
おっと危ない・・・。
今、息子に以前より嫌がられていた糞しょうもない下ネタ挨拶をうちそうになるのをグッと堪えた!わたしえらい…。
ついこないだも息子に、
「母さん、文章がおじさん構文なってんで」とLINEの文章に指摘されなぜ年寄りは自分の若い頃仕入れた駄洒落や定型ギャグを入れてしまうのかまたなぜ句読点を入れずに文章を打てないのか既にこの書き出しだけでもハタと立止まり考え混んでしまうおばさんです。
↑ ほら句読点を入れないとオタク喋りみたいなるじゃん!
まあ若い人に「若い」という特権を自覚させてあげるのも年寄りの役割だと思っているので、気にせずやって行こうと思ってます!(ちなみに冒頭は昭和のクイズ番組「アメリカ横断ウルトラクイズ」の呼びかけ風 若い人は知らんて)
さて、年間1500件位の日本人のお問合せを、日本人/ノンネイティブのチームメイトと共に3年以上受けてきてわかったことがあります。
それは、
「恵まれているのに不幸になりがちな日本人」にはある一定の傾向があるなってことです。
まあ多分日本人でなくともこのタイプの人はいると思いますよ?
ただ、圧倒的に日本人によく見られるので、これって日本人あるあるの良くない傾向なのでは?という気がしている。
その傾向を一文にまとめてみると、
100パーセントの正しい答えがどこかにあると信じている
そしてそれは与えられるものだと期待している
でしょうか。
今日は、これが幸せになれない/満足できれない理由なのでは?思うに至った話をします。
幸せそうに見えない日本人 あなたを不幸にするのは?
マレーシアで働き出して分かったんですけど、日本人って総じて勤勉ですよね!?
日本人の「まあ普通にやる」は海外基準の「けっこーちゃんとやる」くらい、日本人の真面目さのレベルって世界基準で見たら高い と思う。
なのに、なのに、なのに、その勤勉さや真面目さが報われなくて、社会全体がストレスフルで不幸そうなのはなんでなんですかね?
「日本人ってなんでいつも死にそうな顔してるの?」
「はやくはやくはやく っていつも忙しそう」
「楽しそうな人がいない みんな不幸な顔している」
↑↑↑
日本で働いてる外国人の友達や、日本に一定期間滞在したことある外国人の通りすがりの人によく言われた日本の印象。
まあこのイメージ、わからんでもないですよね。
あと、たとえ楽しそうに見えてる人でもすごい焦燥感を抱えていて今に満足してない人も多い。
自分を不幸だと思ってる人、満足いってない人って、人を攻撃したり粗探ししたり足引っ張りがちです。
ので、過去日本でよく排除されたり攻撃されてきた私としては、皆に幸せになって欲しい んですよ。
不幸な人が減れば、攻撃や排除も減って、皆がまるっと幸せになるじゃないですか。
そして私と同じく変な人扱いされてきてた息子にも、 それに巻き込まれず幸せになって欲しい。(このブログは私が死んだあと息子に母の教えとして読ませたいと思いながらいつも書いてます)
そこで、不幸になりがちな日本人の傾向、
100パーセントの正しい答えがどこかにあると信じている
そしてそれは与えられるものだと期待している
を細かく説明して、不幸回避できるものならしてもらいたい!と思っております。
以下、自分に思い当たるとこあればそれはあなたの幸せを邪魔しておりますぞ〜!
①100%正しい答えがどこかにあると思っている
②答えを誰かに与えられることを期待している
③ルールに則れば上手くいくと信じている
④100か0かの完璧主義
①100%正しい答えがどこかにあると思っている
①のこれはテストや勉強で優秀な真面目な人に見られがちです。
テストって正解がすでに準備されてる。
既に自明の答えを勉強で覚えて、または質問から探して正解を当てる。
でも、実際の社会生活では、答えのないことの方が圧倒的に多い。
人間関係でも、仕事でも、経験値の有無関係なく「答えのない問題」に向き合うことだらけ。
当たり前だけど、答えがないものはないのでどこ探してもない。
なので自分で「答え」になるものを導き出す作業が必要になる。
「答え」になるものを作り出する作業と言ってもいい。
それは、研究にも似ていて、情報収集、仮説をたてる、検証する、分析する、自分なりの答えを出す、人からそれを覆される、再度仮説を立て直す、検証…といったトライアンドエラーの連続。
それで(今わかる範囲の自分なりの)暫定「答え」を出すが、それは未来には変わる可能性も有る。
たいていの人は「人から覆される」のを「不正解」宣告と受け取って、それを恐れ答えを発表しなかったりする。
そもそも「仮説をたてる」「分析する」ために必要な自分の視点、自分なりの意見がなかったりもする。
正解はどこかにあり、自分がそれを教わっていないだけだと考えている。
なので「仮説」を立て研究して追求したりしない。
たとえ面白いデータが集まっていても、自分なりの視点や意見が無いため分析も出来ない。
正解がないのは普通のこと、100%絶対的な答えはないのが世界だと知って欲しい。
正解がない問いには、「自分はこう思う、なぜなら~」と自分の答えを言えるようトライアンドエラーを続けて欲しいです。
②答えを誰かに与えられることを期待している
で①の思考の人は、最後わかりませんと丸投げできる、誰かが懇切丁寧に解説してくれる、のだと思っています。
日本で技術者として働く頭のいいブラジル人の友達が、仕事の話で日本人をこう言っていた。
「仕事で分からない壁にぶち当たった時、彼らは壁の前でただじっと立ち尽くしてるんだ。
壁を飛び越える方法を考えたり、壁を壊そうとしたり、周りこめないか壁沿いに歩いて探したり、地面を掘って潜ってはどうかと試すことをしない。
ただ じっとそこで立ち止まってるんだよ!納期は迫ってくるのに!」
…(゚A゚;)ゴクリ…(声かけてもメンドくさいがほっとくと最期よけいメンドくさいやつ…)
いいですか。
「既にある答え」を教えてもらえる場所は18歳の学校まで。
社会は、他人は、学校でも先生でもないです。
立ち止まって待っていてはダメで、かと言って人に丸投げしていいものでもないです。
以前新人の頃、頼りになるチームメイトは言ってました。
「日本人みんな木を見て森を見ずって感じしません?木どころか葉っぱ1枚じーっとみて 形状がどーのこーの言ってくる人が多すぎる。そんな細かいこと聞いてどうすんの?って言いたくなります」。
確かに、英語対応でのお客さんは、
・資料を渡すだけで「ありがとう!わかった!」とすぐにいなくなる
・こちらの簡単な提案で「自分でやってみる!ありがとう!」と終わる
・資料の内容を改めて解説すると「丁寧にありがとう!」と終了
と、あっという間に一件がおわっていることが多かったです。(逆に感情的に怒り散らしてFワード連発、話進まず1時間…てのも一定数いる)
それに対し日本語対応のお客さんは、
・資料をわたしても「分からないので読みません」「読んで分かれば聞きません」
・提案すると「今からやるので待ってください」「どうやるんですか?」「それやったら絶対上手くいくんですね?」「他の人と言ってることが違います どっちが正解なんですか?」
・資料を解説すると「じゃあ〇〇の場合結果はどうなりますか?」「仮にこれこれこうした際の結果は?」
と、何倍ものやりとりが必要になる。(感情的になることは少なく 細かく一つ一つに答えを要求)
英語話者のお客さんはサポートに対する期待値があまり高くなく、自分で試すための道具や手順を貰いに来てる印象 ですが、
日本語話者のお客さんはサポートが全てを知り尽くし完全な答えを提供、未来をも約束することを期待している 感じがします。
なんというか、日本語のお客さんは 極力自分で判断すべき局面を避ける、結果の責任が自分にない状態まで持っていこうとします。
そのため、根本的なこと(背景や理由)を理解しようとはせずに瑣末なこと(ルールや現象)にこだわる ことが多いです。
「この場合これはNGとなってますね」
「じゃあこの場合以外はOKってことですね?」
「いえ、根本が〇〇なのでこの場合以外もNGとなる可能性が高いです」
「でもNGとは書いてないですよね?」
「書いてませんが、××を避けたいというのが根本の姿勢ですのでOKとは言い難いです」
「OKかNGかちゃんと全部書かないとわかりません。OKってことでいいですか?YESかNOで答えてください」
このように、細かなことにこだわって全て確認するために、本来の目的(ゴール)を忘れ前に進まない という印象を受けます。
例えばさっきの壁にぶち当たった状況で「壁を壊してみるってのはどう?」と提案したとすると、
「それはルール違反ではないという確約取れますか。ルール違反で処罰されたらあなた責任とってくれますか?壊す道具は何を使えばいいのですか?壁のどこなら壊していいんですか?でもわたしにはそんな体力ないので嫌ですね。どうしたらいいですか?」
って返ってきますね。
■━⊂( ・∀・) 彡スパーン☆(ええからはよ動かんかい)
実際のお問い合わせでよくあるのは、問題は既に解決しているにも関わらず、
「~が起きた原因について責任者の説明を求めます。」
「次回同様のことが起きた際に御社はどう責任を取るつもりか、文章で残してください。」
「機会損失分を補償してください。」
そうだっ!説明しろ!こちらが納得いくよう丁寧に説明する責任があるっ!といつまでも言い続けるなどもあります。
『賭博黙示録カイジ』より
…こういうときいつも、脳内の壇上に利根川が立って説教始めるんですよ。
ぶち殺すぞゴミめら!
お前たちは皆大きく見誤っている!
この世の実態が見えていない!
まるで3歳か4歳の幼児のように、この世を自分中心、
求めれば周りが右往左往して世話を焼いてくれる…
臆面もなくまだそんな風に考えてやがるんだ!
甘えを捨てろ!質問すれば答えが返ってくるのが当たり前か?
なぜそんなふうに考える、バカがっ!
私はこの利根川のセリフを、今の大手グローバル企業の末端で働く仕事で骨身にしみて理解しました。(←遅い よくエスポワールに乗らずにすんだものだ)
そもそも、組織や社会は全てを開示するつもりは無いのだということを知れ。
都合悪いことはかくし、曖昧にするべくグレーゾーンを設けている。
説明などする気はなく、したとしてもそれが真実かどうかなど追求しえない。
それを前提に、
「自分で」「自分の」本来の目的を達成するために、どこまでその「答え」を追求するのか引き際を決める、 妥協点を探る、代案を探すなどしないといけません。
③ルールに則れば上手くいくと信じている
自分で考えて決める、自分でトライアンドエラーをする、自分で答えを作り出すことをしない人が陥りがちなのが「決まったルールにそのまま従う」です。
決められたルールとか、既存のハウトゥ ですね。
それに従えば認められる、成果を出せる、目的は達成できると信じている。
でも、①②で言ったように 世界はテストでは無いし数式でもないので、ルールに従いAとBを入力すればCが(必ず)出力される、ってことはない。
で、そこでルールやハウトゥのできた由来や背景を考えない人は「言われたようにAとBを入れたのにCが出ない!」って不満を持つ。
「おかしい!ちゃんとやってるのに成果が出ない!」世の中間違ってる わたしは不幸!(思考停止 改善無し)ってなる。
今あるルールやハウトゥは、それができた理由や目的が当初あったはずですが、「言われたようにAとBを入れたのにCが出ない!」って不満を持つタイプの人はその理由や目的をわかっていない。というか考えられない、考えたくない。(めんどくさいから)
そういう人が少なくないのでは?と気づいたのが、「恋愛テクを説く非モテ」や「サプライズパーティやサプライズプロポーズ」の存在です。
ある日仕事で「どうすれば扱いづらいお客さんに素直に話を聞いてもらうか」といった話になった時がありました。
その時、(この人はコミュニケーション能力が低いのか、 意思疎通が難しい)と皆が感じているある男性社員がこう言った。
「お客さんに下手に出るばかりでなく、冷たい態度で突き放すと言うこと聞くようになります。恋愛テクニックと同じですね。あとはコミュニケーションが大切です。」
「恋愛テクニックの有効性」をその恋愛テクニックで本人の恋愛が上手くいっているとは見えない(事実はどうあれそう思われるという客観視ができない)人が恋愛テクを例にアドバイス。
コミュニケーションができていない、と周りが感じる当人がコミュニケーションの大切さを語る不思議現象…。
それだけ 既存のハウトゥ、ルール、テクニックは正しく、自分はそれをやっているから大丈夫 と思い込んでいる。
(どの口がそれを言う!?)と脳内で突っ込んでいた女性社員が複数名いたことを私は知っています。
「サプライズパーティ」や「サプライズプロポーズ」も思い込みでやるとかなり危険性高いです。
サプライズ、これもちろんサプライズが好きな人には有効なんですよ。
ただし、嫌いな人も一定数いるって皆さんご存知ですよね??
サプライズの 本来の目的は「相手を喜ばせる」 じゃないですか。
誕生日を祝うとか記念日を祝うとか、プロポーズするとか。
でも、された人がそれを嫌いな場合、全く嬉しくない、むしろ怒らせることにもなり得る。
※突然たくさんの人の前で「おめでと~う!!」「結婚してください」とされると、された側としては嫌でも喜ぶフリをするしかない
本来ならね、その人がサプライズ好きかどうかは先にリサーチすべきなんです。
それをせずに「サプライズ=喜ぶもの」と 決めつけ正解(相手の感情)を期待 してするのは間違いなんです。
相手の感情は本人のものなのに、期待通りに喜ばなかったら、「喜ばないなんておかしい!」って責めることになったら本末転倒 です。
目的は「相手を喜ばせる」だったはずなのに。
既存のルールやハウトゥが正しく必ずゴールできる、と思わないでください。
そのルールができた理由、背景、本来の目的を見失わないで欲しいです。
④100か0かの完璧主義
この 100/0 思考は不幸の元 です!言い切ります。
この思考の人は、満足度=幸福度を上げることができなくなるから。
忘れられない、気づきになったエピソードを話しますね。20年前の、「古着屋での買い物」の話なんですけど。
私は古着世代ドンピシャなんで、リサイクルショップや古着屋で服を買う事に抵抗がない。
むしろ、宝探しとして10代から今まで古着屋での買い物を楽しんできた。
大学時代のオシャレ大好きな美人な友達と例によって古着屋に行った日のこと。
わたしは欲しいアイテムがたくさん買えてホクホクで友達と店を出た。
その友達が言いました。
「あおちゃん今日もたくさん買ったねー。みせて~!
わー ぜんぶいいじゃん!…なんであおちゃんていつもこんなかわいいの見つけられるの?買い物上手だよね。わたし、思ったのがなくて今日は何も買えてない…。」
残念そうに言うこの友達は、私より断然センスもスタイルもよくお財布具合も同じ。
ただし、完璧主義 なんです。
そこが二人の買い物の仕方を変える。
わたし:
買いたいアイテムの譲れない条件(例:フォークロアっぽい斜め掛けカバン 色はキャメルか茶色)だけに注目して探す。
↓↓↓
具体的な理想像がないので 条件満たしたものが見つかりやすい。結果 欲しかったアイテムが沢山買える。
友達:
先に欲しいアイテムのな理想イメージ像(例:〇〇の新作のあのバッグに似たもの)があり、それを探す。
↓↓↓
理想が具体的すぎて一致するものがなく、結果買えるものがない。
私は理想(100)を特に想定しないので、条件(例えば70)くらい満たしてたら手に入れる。
友達は理想(100)通りなら手に入れる。
70を「OK」にする人はたくさんOKを増やしていく。
完璧主義な人は理想の100じゃないと切り捨て「NG」にしてしまう。
そしてその物だけでは 「70」のアイテムも、手持ち服とうまくコーディネートすることで「100」以上の正解にしていくことは可能 です。
アイテムを買うことが最終目的ではなく、そのアイテムでコーディネートを完成させることが最終目的なのだから、買わないことには始まらない。
本来の目的に対し、課題や物や人と向き合い考え手探りで作り上げていく。
そういうめんどくさい工程をやっていくのが、やってもいいのが大人の醍醐味です。
100か0かで考えないで下さい。
不完全なものを切り捨てず、拾い、自分の手で、100点以上の正解にしていって下さい。
わたしたち個々の「幸せ」に決まった正解はないんです。
だから自分で正解を作るしかない。
これ、正解ですか?って聞かなくていいんです。
勝手に幸せになっちゃってください!
他の誰もそれを「不正解」とは言えないのだから!
※カイジはただのヒット漫画じゃないのでまさかの未読の人がいたら読んでな(☝ ՞ਊ ՞)☝ウェーイ