昨夜 ゆまちゃんがキッチンカウンターで対面してお酒を飲みながら私に
「あおさんの アクの強さは 好かれ度に比例してるんですよ」と 力説してくれた。
「そのキャラクターは 高リスク高リターンなんです。 これは褒め言葉ですよ!」と。
私のことをとても好いてくれてるのは 私が知る限りゆまちゃんと 親友のうららちゃんくらいだけれど、ゆまちゃんは本当に私のことが良くわかってるんだな…… と思って嬉しくて、 カウンターテーブルをぐるりと回って抱きついてほっぺにちゅっちゅっ!ってした。
ゆまちゃんが素敵なのはこうゆうところで、 私が思うこうありたいと決意し そう生きる姿を〝 あおさんのいいところはそこですよ〟 と常々言って褒めて必要としてくれるところ。
それは 私が私たろうと生きる姿を肯定してくれるように感じる。
大人になった私はそれがずっとずっと欲しかった。
男と付き合っているときは「良い女たれ」と圧力を感じ、子どもを産んだら 「良き母たれ」と社会や周囲の人から言われ、そこに〝私〟は必要とされなかった。
〝私〟を出したらワガママ 自分勝手 ナルシスト 大人になれてない子ども 等言われて非難された。
色んなものが〝私〟を〝良き〇〇〟の形に収まるようバッサバッサと剪定してくるように感じていた。
そんな中で (……でも、私はこうなのに、 私の良いところは本当はここなのに、 私はそんな自分を誇りに思いたいのに……)と たった1人でイジケながら守ってた〝私〟を、ゆまちゃんは
「あおさんのすごいところはそこですよね」
って見つけ出して褒めてくれて必要としてくれた。
前にも言ったように私とゆまちゃんは性格もキャラクターも価値観も住んでいる世界も全く違う。良くも悪くも私たちの特徴は真逆だ。 それなのにその、変だ 変わっている おかしい と言われ続けて時に排除されてきた私のその特徴を、 証券会社で働いていた彼女の言葉で「高リスク 高リターン」だと褒めた。
嫌われるリスクは、愛されるリターンとセットなんだと。
私のアクの強さが、でもあおさんが好かれる強さなんですよ!と。
イジメの対象になった中学の頃に、それでも大人びてお洒落な「私はあおさんのこと尊敬してるよ」と言ってくれる親友がいた事で 、たとえ99の人に嫌われても 1人自分を理解してくれて尊敬し合える人がいれば 人は完全に幸せなのだと理解していた。
だから私は、みんなから好かれなくて良いし嫌われても良い 私の事を理解してくれる少しの人と強く愛し合えば良いんだ と信じてその14歳から生きてきた。
今 14歳の私に「それ間違いじゃなかったよ!」と言って褒めてあげたい。
あまりに〝私〟を剪定され 否定され続けて、全部が間違いだったのかと絶望してただの黒い点になった時もあったけど、ゆまちゃんと出会うまで生きててよかったって思います。
……何があるかわからんのが人生だから、日々誠実に生きていような!