「自分に絶対に勝てない弱い者に守られ甘えたいという矛盾が見える男たち」は子供時代に親子間で解消されるべき甘えの欲求を叶えられていない。
20代半ばで男女間(同性同士ではない)の恋愛で感じた違和感や不快感、疑問にフェミニズムで大きな答えをもらい、そして30代半ばで親との関係からのトラウマで生き辛そうな恋人を理解したくて調べたどり着いたアダルトチルドレン、機能不全家族、毒親という概念から、いまの社会で感じたある疑問に答えが出たので書いておきます。
読んだ今、共感や同意ができなくてもかまいません。こういう視点もあるのだとあなたの世の中や人をみる視点にひとつ追加して、考える道具にしてもらえたら嬉しいです。
さて今回話したいことは、先日さわりで紹介したTwitterで見たタワレコ企画①「女子中学生アイドルと添い寝」を肯定する大人と、
最近目にするようになった②JS妻(ロリコン趣味の対象が小学生)というコンテンツを流通させ消費する大人、
そして突飛なようだけど③「1/2成人式」を喜ぶ大人、 これらは未成年の少女を拉致監禁し長期に渡り奴隷化虐待していた犯罪者の心理と求めるものは根本では同じということです。
親を喜ばすために教師が子供に感謝を強要し、無理やり大人の喜ぶ言葉を出させて感動し満足する。世の中には感謝できないような親のもとで 生死をサバイブしている子供もいる。死別、離婚、その他の理由で発表がままならない子供もいる。そんな子供たちを苦しめる可能性のある行事を、大人の自己満足のためやらせている。
(↓母親に虐待死させられた女の子がその年齢のときに書いた母親への感謝の手紙)
大人が子供と対等であるわけがない。 それが忘れられている。大人と子供には圧倒的な社会的、身体的な力の差がそこにあります。どんな関係においても大人と子供であるだけで 強い人(加害者)と弱い人(被害者)になり得る。しかし両方の心のありかたや役割はそれほど単純には現れません。
どうゆうことかと言うと、被害者はその立場から生存戦略として加害者を守ろうとしたり暴力を自発的に受け楽しんでいたり、加害者が求めているものは甘えや愛情だったりするのです。
オーストリア少女監禁事件の記事で生還者ナターシャの言葉を見たとき、いろんな事柄が繋がって理解できたことを覚えています。彼女は自殺した加害者のことを
「私を殴り 地下室に閉じ込め 餓死寸前まで追い込んだ男が求めていたものは 誰かに抱きしめてもらうことだった」
と言いました。
マザコンの気配があったと言う犯人が欲しかったのは本来母親から受けるべきだった「無条件の愛情」であり「自分を受け入れ抱きしめる相手」だったのだと。
圧倒的強者の立場から弱い者に力で強制的に自分をケアさせる加害者は自分を無条件で受け入れる愛を求めていたりします。
愛という言葉はまるで加害者の行為を肯定しそうなニュアンスがあるので、家族問題に詳しい加藤諦三(精神分析学を基に主に親子間の問題を扱う社会学者)の言葉で正しく表現すると 彼らは「本来親子間で解消されておくべき甘えの欲求を弱者相手に満たそうとしている」
になります。 そしてこれは愛とは関係なく加害 虐待です。
聖書の中には、本来愛とは自発的なもの 完全に自由な状態で愛することを自らが選んで初めてそれは愛であってそうでないものは愛ではない と書かれているそうです。
私達が大人になるということはそのような存在はいないのだと気付き 自分と同じ個人とどう向き合い互いが自発的に愛を与え合えるかを試行錯誤しはじめるということです。 ただし無条件の愛を感じ取れないといけない時代が人にはあります。
それが乳幼児期です。その時代に私達は誰かのスキンシップや世話によって不快な時は泣けば解消してもらい 声を出せば皆が喜び 笑えば笑い返してもらわなくてはならない。 自分が何かを発することで肯定的な反応を得なければいけない。すき放題ワガママを言い 王様のように身勝手に振る舞いそれでもなお愛され、世界に受け入れられている実感を持てなくてはならない。
そのためには 親は乳幼児の絶え間ない要求に応えられるだけの精神的身体的余裕が必要です。
精神的身体的に追い詰められると脳ははその対象を外敵と捉えだします。そんな状態の人間に自発的に 全てを受け入れるような愛情などは湧いてこない。外敵と認識する存在を完全に受け入れなければいけないとはかなり残酷な状態です。
でも現実には、親は孤立した中良き親たろうとするプレッシャーに押しつぶされそうになりながら半分壊れた状態で外敵でありながら大切で無力な我が子と向き合っています。そうしてそこで半ば社会から強制的に愛と呼ばれる行為を遂行させられている。 そしてそれは圧倒的に母親一人に丸投げされている。
産んだお前の責任だろうと突き放され助けを求められず、精神的身体的また経済的に余裕がない状態では自発的に湧き上がる愛情を与えることなどできません。 自分を追い詰める子供を脳が外敵と認識してもそれを表現することを社会は認めません。
なので母親はそれを押し殺します。そして愛することを強制させられている母親は子供に見返りをもとめます。
自分が愛の名の下奪われたものを 愛の名の下子供から奪い返そうとする
のです。……それの表れが先程あげた「1/2成人式」ですね。
乳幼児期に貰うべき完全な受容や愛をもらえなかった人は大人になってもそれを求め続けます。ようはいつまでも責任をとらずにすむ受身な立場で守られ甘やかされたい
ということです。
彼らはすべてを受け入れられることを恋愛や友人関係で求め、得られず傷つきます。全てをも受け入れる、拒否しないというのは言い換えれば加害行為にもNOを言わないということ。当然自立して自由な立場である個人相手では不可能ですよね?そこで、その願望は自分の加害に絶対にNOを言えない弱い存在に向けることになる。そして相手が強制などではなく自発的に望んでそうしているのだ というファンタジーを求める。
そこにはいつまでも個人として自立できず愛することもできず自分より弱いものに加害しながら甘えを開き直り責任を取らず偉そうにしている醜悪な大人の姿があります。
そしてもっと最悪なことに彼らはいくら弱い者から感謝や愛をむりやり脅し取っても決して満足はしない、ということです。その要求の行きつくところは「私のために死んで」になります。それでも彼らは満足しないのですが。
……それは当然で、自分が本当に欲しいのは親から無条件で愛されることによって親子間で満たされるべき
“世界に受け入れられている実感”
なのだから。
私たちはもう 知らずに加害者なってしまう大人です。大人であるということは それに無自覚ではいれません。どうしたら 愛しているはずの存在に暴力を振るわずにすむか 、その暴力で新たな加害者を育ててしまわないか、そのために必要なことをずっと模索し書いていきたいと思ってます。